12


カラリと目の前に置かれたグラスが音を立てる。
氷の沈められた中身は烏龍茶らしい。

そして、猛の手にあるグラスに入っているのは氷と酒。
風呂から上がった猛はキッチンに入るとグラスを二つ持ってソファへと移動してきた。

何故俺が烏龍茶かというと未成年だから、ではない。怪我に障らないようにという配慮らしかった。

ソファへと座った猛は手にしていたグラスを傾け喉を湿らせると俺へと視線を投げてくる。
手を付けずにいる烏龍茶がまたカラリと音を立てた。

「…何だよ」

ジッと見られる居心地の悪さに眉を寄せる。逃げずに見返せば凪いだままの眼差しが言った。

「明日は今日より帰りが遅くなる」

「……ふぅん」

「お前、どうするつもりだ?」

すらりとした長い足を組み、猛は手にしていたグラスをテーブルの上に戻すと膝の上で手を組む。聞かれた意味が分からず俺は聞き返した。

「何が?」

「そうか…自覚がねぇのか。ここ最近は早めに切り上げて帰ってきてたからな」

何か考えるように呟いた猛は首を傾げた俺にさらりと言葉を投げてくる。

「夜、一人で寝れるのか?」

「はぁ?ガキじゃあるまいし何言ってんだ。寝れるに決まってるだろ」

いきなり何を言い出すんだと俺は鼻で笑い返した。
これでも一年は一人暮らしをしていたのだ。
女でも連れ込めば話は別だろうが、そもそも俺は他人を自宅には入れたいとも思わないし、入れたこともなかった。

風呂に入る前から何だか頓珍漢な問いを重ねてくる猛に意味が分からず段々と目が据わってくる。

「俺を馬鹿にしてんのか?」

「そういう意味じゃない」

「だったら…」

意味が掴めない上、するりとかわされているような気がしてきて知らず語調がキツくなる。
ひたりと絡まる視線に胸の奥がざわつき出して言葉が途切れる。

「………」

無意に熱くなる俺に対し猛はどこまでも冷静な目で、テーブルに置いたグラスを手に取った。
溶けた氷が静まり返った空気を小さく揺らし、冷えたグラスに口を付けた猛は切れ長の双眸を細めた。

ややあって表情を動かした猛が口を開く。

「何かおかしいな、お前」

「……どこが?俺は至って普通だ」

「…明日はなるべく早く帰れるようにする」

「その話はもういい」

喉の渇きを感じて烏龍茶に手を伸ばす。グラスを傾けごくごくと、喉を滑り落ちる冷たさに身体の中から冷えていくようだ。

カタッと氷の残るグラスをテーブルの上に戻す。

「拓磨」

「なに?」

同じくグラスを空け、テーブルの上に置いた猛が俺を呼ぶ。
目を向けた俺に猛は自分の隣を指して言った。

「こっちへ来い」

言われた台詞を黙殺しようとも考えたが外されることのない視線に俺は諦めてソファから立ち上がった。

少し間を開けて隣に腰を下ろせば肩に回された腕に引き寄せられ、息を飲む。

「――っ」

抵抗するように跳ねた肩を無視し猛は引き寄せて近付いた耳元へ言葉を流し込んだ。

「何が不安だ?今思ってることを言え」

「は……っ?」

「俺を相手に言葉を飲み込むな。くだらねぇことでも聞いてやるから我慢せず言いたいことを言え」

「俺は何も…」

近付いた距離に戸惑いと焦りを感じながら言葉を返す。左手で猛の身体を押し返してもびくともしない。
肩に回された腕に、触れた温もりにとくりと小さく鼓動が動いた。

空いていた猛の片手が伸ばされ、顎にかけられる。くぃと顔を上げさせられ至近距離で漆黒の双眸と視線が絡んだ。

心の奥底を覗き込むような強い眼差し。

「っ…離せ」

「嘘だな。…お前は口より目の方が素直に感情を伝えてくる」

囁くように言いながら近付いた唇が目元に触れてくる。
反射で瞼を閉じ、身を引こうとすれば追い掛けてきた唇が瞼の上にも落とされた。

「目を反らすな」

顎から外された手が頬を滑る。

「餓鬼の我儘の一つや二つ軽いもんだ。言ってみろ」

頬に添えられていた指が目元をなぞるように擽り、逆らえない低く深い声音に誘われてゆっくりと瞼が持ち上がる。

再び視線が絡まる。

「俺に何をして欲しい?」

「……別に何も」

微かに揺れた瞳が一瞬瞼の裏へ隠れ、僅かに俯いた口から間を開けて小さな声が続いた。

「…少し……このまま」

溢された声に肩を抱いていた腕に力がこもり、目元に触れていた手が頭を抱くように後頭部へ移される。

「こんなもの我儘の内にも入らねぇな」

はっと呆れるように吐き出された声とは裏腹に後頭部に触れた手は優しく温かい。…尖っていた心が次第に落ち着きを取り戻していく。

「早く帰って来いぐらい可愛いことは言えねぇのか」

「…アンタの邪魔をするつもりはない」

「聞き分けが良すぎるのもつまらねぇな。次までに何か我儘の一つでも考えておけ」

さらさらと後頭部に添えられていた手が髪を梳く。
宿題のように出された命令にとくりと心震わせながら、胸の奥に生まれた期待を沈めるように平淡な声で聞き返した。

「次なんかあるのか?」

「次以上に何回でもあるだろうがどうなるかはお前次第だ」

「俺次第…?」

髪を梳いていた手が止まり、考え込みそうになった意識を引き上げられる。

「そろそろ寝るぞ」

組んでいた足が解かれ、肩から落とされた手が俺の腕を掴む。ソファから立ち上がった猛に腕を引かれ、俺も釣られてソファから立ち上がった。







リビングの電気は消され、寝室へと移動する。
寝室に唯一ある大きな窓は夜になりカーテンが引かれ、天井に埋め込まれた明かりを消してしまえば光源はサイドテーブルの上に置かれた淡いオレンジ色の光を放つテーブルランプだけになる。

「先に入れ」

促されて俺はいつも寝ているベッドの奥へと上がり、横になる。固定された右腕と装具が付けられた胸に妙な負荷がかからぬよう仰向けになって転がった。

その隣へ猛が身を滑り込ませる。
いつもなら怪我を考慮して二人の間には心持ち僅かではあるが距離が開けられている。俺が手を伸ばすなどありえないし、猛が触れてくることもない。

しかし、今夜は何故かいつもと違った。

ベッドに横になり、目を閉じようとすれば隣から伸びてきた手がするりと腰に回される。びくりと震えた身体をやんわりとした弱い力で引かれ、俺は抵抗するように首を動かして猛を見た。

「怪我に響くだろ。離せよ」

「抱いて寝るだけだ。何も問題はない」

抗議した俺の目の前で猛は言いたいことだけ言って瞼を閉じようとする。
無意識に強張った身体に俺は焦りを感じて言い募った。

「それはアンタの都合だ」

俺は落ち着かないし、このままでは気になって眠れやしない。
これまでの慣れか猛との接触は最初ほど恐ろしく感じなくなってきてはいたが、今は何か別の知らない感情が心の奥底でちりちりと燻っている。

閉じようとしていた瞼が途中で止まり、細められた目が俺を見る。

「この方がお前は良く眠れるだろ」

「何を根拠に」

腰を抱く腕とは逆の手が覆い被さるように俺の頭に回される。

「もう黙れ」

気付けば猛は身体を横にして俺の方を向き、仰向けに寝る俺の頭と腰を己の腕の中に包むようにして抱いていた。

「寝れば分かる」

頭に添えられた手にぽんぽんと後頭部を叩かれ、一方的に告げられた間に猛は瞼を閉じてしまう。
譲る気はないのか身体に回された腕もほどけそうになかった。

それは押し返す俺の手に力が込められていないせいかも知れない。

「………」

結局は俺は本気で嫌なわけではないのだ。
落ち着かないというのは本当のことだが、心では猛を拒絶してはいない。

「……我儘って何だよ」

鋭く強い力を宿した瞳を瞼の裏に隠した猛からは普段の威圧するような深い闇を思わせる独特の気配は感じられず、凪いだ湖面のようなほんのりとした温かさが触れた箇所から伝わってくる。

「俺は……」

アンタに何を言えば良かったんだ…?

声には出さず口の中で呟かれた言葉は誰にも届かずに消える。

「………」

シンと静まり返った寝室の中に小さな欠伸が零れる。
あれだけ眠くなかったはずが考え事をしている最中に強い眠気に襲われ、俺はうとうとと頭の片隅に宿題を残したまま瞼を落とした。

その後暫くして静かに開けられた眼差しが健やかな寝息を立てる顔を見守るように見つめていた。



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